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2012-04-26

日本の伝統的なサーフィン(板子乗り編)Japanese Traditional surfing (Bellyboarding)

Hollow Wooden Surfboard 木のサーフボードを作る
日本の伝統的なボディサーフィン から続く

 日本では古くから波乗りをしていた。水泳技術としては、波乗りは今でいうボディサーフィンで、板子を補助に使っていた。
 ここで言う板子とは、日本の伝統的なベリーボードのこと。1960年代まで使われていた。全体としては長方形のシンプルなボードだった。
 スペックはこの通り。

・構造 ソリッド
・材料 杉
・寸法 長さ1'6"〜3'、幅12"、厚さ1"
・ノーズ スクエア
・テール スクエア
・デッキ フラット
・ボトム フラット
・レール スクエア
・ロッカー なし
・フィン なし

 ノーズに板子を握るための横長の穴が開けられたものがあった。

 大正13年(1924)に出版された「日本體育叢書 第十二編 水泳」(佐藤三郎著、目黒書店)には、板子乗りについて詳しく記述されている。
「(前略)濤乗りの練習には先づ板子を以て練習するがよい。
(中略)練習の初めには足先の着き得る浅瀬で試みるがよい。濤頂を待って濤が小さいときは濤頂が三尺位大きい時は一間程も後に來た時、底を蹴って跳び出し(第百三十三圖)體をなるべく平たく、短距離のクロールの姿勢になり、板子を持つたときは片手で支へて足はバタ足を細かく使ひ片手で片抜手を速く細かく使つて乗る。一旦乗つたら手は兩手とも板子にかけ、足はバタ足を使つて少しづつ濤から残されるのを防ぎながらいけば岸邊まで乗つて行ける。(第百三十四圖)(後略)」


 なお、板子の使用法については次のように述べられている。
「板子を使用する場合は主として次の三の場合である。
1、溺るるものを救ふとき又は遠泳などで非常に疲れた者を救ふときに持つて行くとき。
2、難船等の場合一身を救ふため。
3、始めて泳を學ぶとき。
(中略)縦に板を用ふる法
 百廿六圖のやうに板を縦に用ひて泳ぐのであるが。板は腰骨に當て體は板に乗りかゝるやうにし先手の肱から曲げて腕を斜に板の上に置き指は他方の縁を握り、足を扇り受け手を片抜手一段の要領で掻いて進む。此時板の先端は水面から四五寸出して水面を辷るやうな気持で泳ぐがよい。(後略)」


 板子は、今日のパドルボードやレスキューボードの役割を果たすことが認められていた。

 水泳やボディサーフィンは国や時代を超えた文化と言える。大正時代の日本で技術が体系化されて記録に残され、たとえ一時的に忘れられても容易に再現できるのは誇るべきことだ。津崎亥九生、佐藤三郎両氏は、自分の著作が100年後にインターネットで紹介されるとは思いもよらなかっただろう。大先輩に感謝する。

 以上、日本の中空木製サーフボード製作の先駆者、nobbywood surfboards 代表の大川信仁氏に敬意を表し、記した。
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 競泳の練習の補助具(今日の「ビート板」)として、日本の板子とアメリカの木製ボードが共存した時代があった。

 

 齋藤巍洋(1902-1944)が昭和初期に著した2冊の本の中に画像が残されている。
 左はアメリカ代表選手、ヘレン・マディソン Helene Madison(1913-1970)「新日本水泳術昭和9年(1934)、三省堂。右は日本代表選手、根上博(1912-1980)(「日本水泳読本」(昭和12年(1937)、三省堂)。
 マディソン選手は昭和7年(1932)のロサンゼルス五輪で3個の金メダルを獲得。根上選手は昭和11年(1936)のベルリン五輪で5位。

 マディソン選手の板は木製で、寸法は推定で長さ3'、幅20"。ベリーボードだろうか。形は同じ時代のサーフマットに似ている。構造はホロー(中空)と思われる。外観からレールの材料がデッキと違うことが分かる。浮力が大きく、テールに胸元を乗せて、さらに撮影のため頭と目線を上げてもまだ余裕がある。ファイバーグラスがない時代のため、表面はニスなどを塗装して防水した。板の幅は肩より広く、レールを両手で握ってゆったり肘を乗せている。
 ちなみに、最初の木製ホローのサーフボードが作られたのが1920年代後半、アメリカのトム・ブレイク Tom Blake(1902-1994)による。ブレイクは、競泳選手、ライフガード、サーファー、パドルボーダー、発明家、著述家と、水のつながりでいろいろやった人だった。

 根上選手は日本の伝統的なソリッドの板子だ。寸法は推定で長さ長さ3'、幅12"。ホローのボードほど浮力がないため、板が全体的に水没し、ノーズがわずかに水面から出ている。板に迎え角をつけて揚力を発生させることで浮力を補っている。板は肩幅より狭く、レールを握ると抵抗が大きくなるため、手は板の上に軽く置き、バランスを取って迎え角を調整している。鋭い引き波が勢いを感じさせる。

 齋藤巍洋は大正13年(1924)のパリ五輪100m背泳ぎで6位。大正14年(1925)の第1回日本選手権水泳競技大会100m自由形で優勝。昭和10年(1935)にブラジルに派遣されて指導に当たり、翌年のベルリン五輪に役員として参加した際のエピソードや写真は「日本水泳読本」に紹介されている。

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 改めて板子乗りについて調べた。

 板子乗りが水泳技術の体系とは別のものとして行われていた例もある。文政4年(1821)、現在の山形県鶴岡市湯野浜で、付近に住む子どもが瀬のし(板子乗り)をしていたと記録されている。

 板子乗りが一般に親しまれるようになったのは、開国して日本に海水浴の習慣が持ち込まれたのち、明治中期頃からで、海水茶屋の板子の貸し出しが普及に寄与したようである。板子の中には、海水茶屋の馴染み客がスポンサーとして宣伝のために寄贈した商標入りのものもあった。

 日本でサーフィンが始まった1960年代以前、少なくとも山形県(鶴岡市)、新潟県、千葉県(いすみ市、勝浦市)、東京都(八丈島、新島)、神奈川県(三浦市、鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、大磯町)、静岡県(熱海市、下田市)、愛知県(田原市)、鳥取県、徳島県で板子乗りが行われていた。

増補 鎌倉の海」編集委員会の「増補 鎌倉の海」(鎌倉市海水浴場運営委員会、平成6年)に収録されている『座談会「愛されて100年 鎌倉海水浴場」』から、明治末〜大正初期には、由比ガ浜などでボディサーフィンや板子乗りが行われていたことが分かる。また俳人、高木晴子の「鎌倉育ち」によると、昭和初期の由比ガ浜で、女性や子どもが足が立つところで波を待ち、板子を補助に波乗りをしたという。

 内藤千代子(1893-1925)「生ひ立ちの記」(牧民社、大正3年(1914))の「觀喜に輝ける夏」(P.52)から、当時女性が板子乗りをしたことが分かる。

 幼女の友」第16巻第8号(幼女の友社、昭和7年(1932))に当時の海水浴の様子が紹介されており、板子が子どもが海水浴で遊ぶための浮き具として登場している。

 日本のサーフィンの父、坂田道(おさむ)氏(1937-2012)の話から、昭和30年代後半、湘南に板子乗りがいたことが分かる。

 板子乗りは、サーフィンの普及とともに1960年代に姿を消していった。高度経済成長期、主要な燃料が石炭から石油へ転換し、日本が本格的に工業国となった頃である。
 アメリカでも、木製ホローボードが、ポリウレタンフォームのコアをファイバーグラスで強化した板へと代わった。
 波乗りの板は、木からプラスチックになった。

 板子の寸法は幅30cm(1尺)、長さ45〜90cm前後(1尺5寸〜3尺)、厚さ2〜3cm(7分〜1寸)。
 水泳の練習用として、長さ6〜7尺、幅1尺3寸前後の大型の板子が推奨された例があった。

 大磯町郷土資料館に板子が収蔵されている。神奈川県立湘南海岸公園サーフビレッジには複製品が展示されている。

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